龍虎同盟のドラの投稿です。レジェンド企画として何篇かに分けて投稿します
プロ入り〜2軍
1983年ドラフト会議にて、日大藤沢高校から第5巡選択選手として中日ドラゴンズに入団した山本昌
190cm近い大型の体格からどんなボールを投げるのか?
ドラフト下位のとはいえ、その素材を見込まれての指名
大きな体の左腕はそれから2軍で1年目、2年目と過ごし、今か今かとじっくり力を蓄ていった
荒削りでも良いからどんな豪速球を投げるんだ?誰もが期待していた3年目
当時就任したばかりの監督星野仙一がブルペンに見に行った
キャッチャーに向かって何度も投げ込む山本昌
なかなか速い球を投げない彼に向かって監督は
『速く本気で投げてみろ』と伝えたところ
『監督、これが精一杯です』
闘将は帰っていった。。。
当時自分に才能がないと思っていた山本昌本人は、周りの先輩の剛速球に『なんてところに来てしまったんだ。。』と嘆いていたそうだ
3年目、4年目と1軍出場は果たすもほとんど鳴かず飛ばず
そんな山本昌に転機が訪れたのは5年目の春季キャンプ、アメリカの地にて
アメリカ武者修行
当時中日と交流があったドジャースにて、山本昌含む5人の選手が野球留学として滞在した
ただ、実際は交流を保つためにその年の戦力にならない選手を選んで送られたため
つまり、少なくとも山本昌は5年目になっても、この年の戦力としてカウントされていなかった
この時から、山本昌のアメリカ武者修行が始まった
案の定試合で打ち込まれ、1Aにまで落とされた
そこで出会ったのがアイク生原氏
当時悩み続けていた昌は生原氏に徹底的に投手としての基礎を教わった
後にレジェンドと呼ばれる山本昌の礎はアイク生原氏との出会いを通じて築かれていった
また、当時のメジャーリーガーが投げていたスクリューボールを目の当たりにし
なぜかチームメートの野手にスクリューボールの投げ方を教わるなど
山本昌の代名詞となるボールもここで誕生した
それからあれよあれよとピッチングが通用し、1Aのオールスターに選ばれるなど
目覚ましい成長を遂げた
あまりの活躍ぶりに、メジャーのロースター入りの打診を受けるレベルに成長した彼は。。。
闘将に見つかっちゃった。。。
おしい、もう少しでメジャーリーガーが誕生したのに笑
帰ってきた若武者、怒涛の快進撃
1988年シーズン真っ只中、アメリカでの急成長を見初められ、急遽帰国を言い渡された若武者は
さっそく1軍での出場を果たし、怒涛の快進撃で5連勝
チームの優勝に貢献した
この年は日本シリーズにも登板し、敗戦投手となっている(お気づきの人もいると思うが、山本昌の不名誉な記録はここから始まっている。。)
翌年には9勝をあげるなど主力に活躍し、もう一度アメリカ留学に赴いた昌は
変化球の精度をあげるなどさらなる成長を遂げた
左のエース2枚看板は球界を代表する投手へ
1990年代を代表する投手は誰か?
数多くのドラゴンズファンの心に残っているのは今中慎二と山本昌の左のエース2枚看板
1990年には2人揃って10勝をあげ
1992年には13勝
1993年には2人揃って17勝の最多勝、山本昌は最優秀防御率を獲得
押しも押されぬ活躍により、ファンの心に残る活躍をした山本昌は
この年大台の年俸1億円に到達し、名実ともに球界を代表する選手へとなっていった
沢村賞獲得、全盛期はここに極まれり
1994年シーズン最終盤
あの天下の名勝負、後に10.8決戦と呼ばれる巨人−中日の最終戦
勝ったほうが優勝という異様な緊張感の試合
その一つ前の10.6の試合に山本昌は登板し、なんと19勝目をあげていた
もちろんこの勝利がなければ10.8決戦には挑めなかったため
間違いなく昌も伝説の名勝負の立役者のひとりであろう
結果は巨人が勝利し優勝となったわけであるが
この年山本昌は19勝8敗14完投、防御率3.49、奪三振148、投球回214回で
見事沢村賞を獲得した
まさに全盛期ここに極まれりの活躍であった(続きはこちら
ここまでのプロ11年間の通算成績
登板数 | 投球回数 | 勝利数 | 敗戦数 | 奪三振数 |
192 | 1101 | 79 | 47 | 734 |
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