レジェンド山本昌・ナゴヤドーム移転〜球団最年長選手

OB〜懐かしの選手〜

龍虎同盟のドラの投稿です。今日はレジェンド企画山本昌の続き、油が乗りまくり
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ナゴヤドームへ本拠地移転

ここまで大車輪の活躍を果たした昌であったが、1995年からは勤続疲労からの怪我により思ったような活躍ができず、ナゴヤ球場最終年を迎えた
成績こそ振るわなかったが、なんとか規定投球回を達成した

1997年、中日は本拠地をナゴヤドームへ移転


この年の昌は、怪我により離脱したエース今中の代わりに初の開幕投手をつとめ、本拠地移転が功を奏して大復活
チームは最下位に沈んだものの、18勝の最多勝、初の最多奪三振のタイトルを獲得した

エース今中が怪我で離脱する中、ここから山本昌の一強時代が進むと思いきや
野口茂樹の台頭があり、またもやダブルエースの時代を迎える
華々しく何度もタイトルを獲得する野口がエースとして活躍し、どちらかというとベテランの域に入っていた山本昌は10勝できるかできないかの地道な活躍を続けることとなる

闘将の退団

1999年のリーグ優勝に貢献した山本昌は、日本シリーズに登板するも、またもや勝てず、この年はシーズン8勝に終わり、2年間で17勝
なんと1998年の成績と合わせて20勝できなければ年俸を下げるという契約を結んでいたため
チームの優勝とは裏腹に、みごと年俸がさがることになった。。。

時は2000年へ
守護神ソンドンヨルの引退、メルビン・バンチが最多勝、エディ・ギャラードの最優秀救援投手賞、岩瀬仁紀の大車輪の活躍等で、ドラゴンズは新たな時代の幕を開けていた

そんな中でも昭和の大投手山本昌は相変わらずの活躍
そろそろ成績は下り坂で引退がちらつく17年目のはずが
2001年には3度めの開幕投手を努め
2000年と合わせて2年連続二桁勝利をあげることとなった
押しも押されぬエースではないが、正直この時点でだいぶ化け物である

2001年、山本昌飛躍の転機となったアメリカ修行を手配した闘将・星野仙一が成績不振の責任を取って退団
時に厳しく、時に優しく、また時には理不尽に怒鳴られ続けた山本昌は、心底あんしry)残念に思っただろう
どういう理由かはわからないが、星野政権下では1億積まれても次はプレーしたくないらしい、どういう理由かはわからないが、、、

年齢は関係ない、落合監督の方針

2004年から監督に就任した落合博満
彼が導いた黄金期の中日についてはまた別の機会に

山本昌は落合に出会ったことで、長い長いプロ野球人生を勤め上げることができたと言っている

通常の監督は、同じ力量であったら将来のことを考えて若い選手を使う
しかし落合は少し違う
現時点で一つでも多くアウトを、一本でも多くヒットを打つ選手を使う
そこに年齢という言い訳は許さない

落合の方針が見事はまった山本昌は、ベテランといえどもまだまだ若手に負けていない
一試合でも多く、一イニングでも長くプレーできることを証明し、何試合も使ってもらえた
正直この監督の方針がなければもっと早くに引退していたと後に語っている

この頃のエースと言えば誰もが川上憲伸と言っていた
しかし、ベテラン山本昌も決して負けていなかった
2004年は11勝!実に7年ぶりの二桁勝利をあげた
長くエース級の働きをしていた山本昌は、常に同チームにもっと凄いエースがいたことにより、この頃から『永遠の2番手』と呼ばれるようになっていった。。

球団最年長へ

2004年には川上憲伸とともに大活躍の末、リーグ優勝、日本シリーズに進んだ
あと1勝で日本一となる第6戦に先発
5回1失点の投球で今度こそ日本シリーズ初勝利となるかと思われた6回
後に同じチームメートとなる和田一浩に変態的ホームランを打ち込まれ6回3失点
無事敗戦投手となっている・・・

この年のオフ、同期の紀藤真琴の退団により、ついに球団最年長選手へ
20年目を超えた選手はいつ引退してもおかしくない
大ベテランの域に到達した山本昌はここからどのような活躍を見せるのか?
書いていてとても楽しいのだが、今日はこのへんで 続きはこちら

ここまで21年通算

登板数 投球回数 勝利数 敗戦数 奪三振数
442 2592 173 123 1830

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